独楽曲芸師の日常

漂えど沈まず・・・無名で有名な曲藝師の本音です。
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ひすとりー

ヒストリー4 おそらく全盛期

大道芸を始めて1年ちょっとした頃にヘブンアーティストなんてものが始まる。
なんか誤解があって、都内ならどこでもやっていいみたいに思われていた。銀座の歩行者天国を開放とかね。
それはともかく、自信がないながら受けた。未だに自信はないが、当時はもっとなかった。絶対おちるなんて思ってた。
しかも明らかに良いショーはできなかった。それでも何とか受かったりしちゃって。
とはいえ、当時はあまりヘブンアーティスト制度はつかわなかった。
ゲリラで自由にやってたほうが気楽だった。
この頃からジャグリング熱が冷めて、マジックをやりだした。小学生のとき以来かな。最初にやったマジックがスプーン曲げ。
それから片っ端からマジック道具を買いあさった。その9割以上は使わずにオークションで処分する。
気に入って使っていた道具でも数年使うと飽きる。道具を買えば誰でも出来るようなものはすぐに飽きる。
結局スライハンドでやるマジックほのうが面白い。ジャグリングでもマジックでもそこは同じ。

小学生の頃、遊園地で見たマジシャンがマイザーズドリームをやっていた。

当時の私もこの少年のように舞台に上がってマジシャンの手伝いをした。そのマジシャンのマジックで唯一覚えている演目である。このマジックはどうしてもやりたかったので、この時期、DVD、本、ギミックと買い集めた。
未だにお気に入りのマジックである。

2002年の11月に初めて曲独楽をみた。いろいろ調べたがとにかく情報がなかった。とりあえず独楽芸をやってる人に問い合わせたが、見事に購入先など教えてもらえなかった。非常に閉鎖的な世界であった。このとき曲独楽は一度諦めた。

2003年から2007年はジャグリングの練習は殆どやった記憶がない。一日中トランプやコインを触っていたように思う。。そういや、奈良県で仕事やったのも確か2007年だった。歌舞伎町で大道芸をやってたとき、「西のほうの鹿のいるところからきた」なんていってた。そのときたまたま今の奈良市長が見ていて呼んで貰った。
おそらくこの時期が私の全盛期だろう。後はおちる一方・・・・

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大道芸始めたころはオーバーオールやねん。サロペットといったほうがいいかな。
イベントのときは青だった。
痩せてたときもあるんです。ジャグリングを始めたと最初の2年は私の人生で唯一痩せてました。
ひたすら練習していたのと、貧乏ゆえ野菜しか食べてなかったからだと思う。
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この頃から太りだしたんやけどね。
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カラーTシャツ時代。4年ぐらいカラーTシャツ時代があった。
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Tシャツで大道芸やってたけど。2006年からチャイナ服着だした。きっかけは結婚式に行ったとき、民族衣装着てる人がいたので。これは体型隠せていいや。みたいな。
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この頃は曲もチャイナ系がおおかった。実際は香港、台湾ものやけどね。



2007年3月の映像。この日は凍りつくように寒かった。これ8mmフィルムで撮影されてるねん。珍しいからアップしておく。
音楽は後でつけたけどね。この時代はすでに同時録音できるフィルムは存在しなかったの。
ちなみにこの後しばらくしてフジフィルムは8mmから完全撤退。未だに日本で8mmやってる人ってどれぐらいいるのかな?

ひすとりー

ひすとりー3 マラバリスタ時代

ジャグリングをはじめてからのこと。


映像やめてからジャグリングに熱中していくことになる。
たしか船の修理の仕事をしていた。
職場が遠いので朝5時半起きだった。8時から18時まで仕事して家につくのが8時ごろだっただろうか。
昼休みにテニスボールで練習して、家に帰ってから2時間練習するという生活だった。
その仕事も長く続かずいろんなバイトを転々としていた。
いつか忘れたが、野毛大道芸を見にいった帰り、ナランハの社長が駅でジャグリング道具を売っていた。
チラシ1枚のカタログを貰って帰った。商品ラインナップは、ビーンバッグ、シガーボックス、ディアボロ、クラブだったかな。
デビルスティックはなかった。なぜなら、社長がもっとも苦手な道具だったから。

当時はとにかく貧乏だった。とりあえず8mm関係の機材をすべて売った。あとテレビ局で働いてたときに貰った台本とかも。そのお金でジャグリング道具を買っていった。今でも大して変わっていない。手品道具を売ったお金がそっくり曲独楽にかわっていってる。

静岡の大道芸を見に行ったときだったろうか。金色の帽子の男に声をかけられた。マラバリスタに誘われて、練習しにいくようになった。学生ばかりのマラバリスタになじむことは無かったが、風船職人とであったのはここだから決して無駄ではなかったろう。あと、マラバリスタにいってたころ、1度だけイベントに参加した。

平日はバイトして、週末は風船を売ったりしていた。ジャグリングのショーも何度か試みたがとても人様に見せれるような出来ではなかった。

ある日池袋で風船を作る人とであった。家が近いことからそれから頻繁に一緒に練習した。
とにかく練習好きな人であっという間に抜かされたのだが、未だに芸人にはならず普通に仕事を続けている。sonota 384
とにかく芸が未熟だったのでとりあえず火をつけていた。

しばらくは平日一緒に練習して、バイトして、週末に風船を売るという生活だったが、バイトの日当以上を稼ぐ日がくる。
そうなるとバイトいくのが億劫になり次第にいかなくなる。
だからといって大道芸で順調に稼げるかというとそんなことは全くない。収入がある程度安定するまで半年ぐらいかかっただろうか。とにかくお金がなかった。池袋に行くのに重い荷物をもって歩いていっていた。
いつの間にかある程度の収入になっていった。不思議である。

ひすとりー

ヒストリー2 クロ歴史

学生時代はおおむね楽しかった。
そんな中でも黒歴史がありまして。

なんか、Vシネマのエキストラ募集ってのがあってね。
キューティー鈴木主演って聞いていた。JWP女子プロレスは結構すきだった。
で、エキストラやったんだけど、キューティは出演しなかった。
深夜に幽霊がでるとかいううわさの病院で何時間も延々またされて。
現場到着して早々とメイクしたんだけど、撮影したのは明け方近かったと思う。
クロ歴史

全貌を見たのは撮影終わってから随分たってからだった。トンでもない作品でした。監督名が亜蘭墨志ってことですべてがわかるだろう。
アランスミシーについて知らない人はこちら
ただ、当時のクラスメートがたくさん映ってるので懐かしいなと思う今日この頃です。

ひすとりー

History 1  ジャグリングを始めたきっかけのこと

昔、ウェブサイトに書いてあったんだけど、そのページ閉鎖しちゃったからね。
大道芸をやるまでの経緯などを簡単に思い出す限り書いておく。
大して面白くないだろうから読まなくていい。




7月13日(火)奈良県の五條市に生を受ける。

幼稚園、小学校、中学校、高校と一応順当に進学しました。高校卒業後、専門学校に行くのを口実に上京。



私が記憶に残っている一番最初の奇術は小学校の3年か4年の時だとおもいます。

家族で行った通天閣にあったマジックショップでテーパー加工されたマークドデックを買ってもらいました。

このカードは観客の引いたカードを瞬時に取り出すことができるほか、裏からみて表の数字がわかるマークがついています。

今でもテンヨーから同様のカードが売られています。

その数年後に再度通天閣を訪れたとき同じ人がマジックショップをやっていましたが、高校卒業の頃に行ったときは誰もいませんでした。



私が住んでいた田舎では大きなデパートなどはなく、大阪の親戚の家に行くときに阪神デパートに連れて行ってもらいました。

そこで購入したのがダイナミックコイン、チャイナリング、トラベリングデックなどです。いわゆるマジックを覚えた手の人が必ず買うような道具を

順番にかっていきました。いや、買ってもらいました。

そういった道具を購入しても実際演じるとなると話は別で全く上手くできなかったものです。

そのころお小遣いで手品の本なんかも買っていましたが、子供に理解できるものは少なかったように思います。

たまに実家に帰ったときに、その頃購入した本を読むとかなりマニアックなことまで書かれていることに驚きます。



小学4年生から週に1回クラブ活動というものがありました。

私は4年生のとき一輪車クラブなるものにはいっていました。別に好き好んで入ったわけではなく、

自分の入りたいクラブが定員いっぱいで入れなかっただけです。

そんなわけで1年間のクラブ活動で全く一輪車には乗れませんでした。

とにかくスポーツ全般は嫌いで体育の成績は散々たるものでした。

唯一できたスポーツは水泳です。とはいえスイミングスクールに行っていたわけではないので

特別早いというわけではありませんでした。たしか、50メートルで48秒だったかな。

小学校の卒業文集でも水泳のことを書いたような記憶が・・・・ヽ(~~~ )ノ ハテ?



中学校では全くスポーツはやらず、強制加入の部活動なんてものもなく帰宅部でした。

もっぱらいインドア派で映画ばっかり見てたように思います。

私が通っていたころは丸坊主だったのですが、卒業した次の年からそのような校則はなくなったようです。



中学卒業後、普通に高校に進学。井の頭公園でよく見かける楳図かずお氏の母校ですな。

まあそんなことはどうでもいいが・・・。

高校の3年間は本当に詰まらなかった。つまらなかったのであまりよく覚えていないが、この3年間も映画ばかりみていました。

WOWOWに加入したのでいろんな映画を見まくってました。地元に唯一あった映画館は小学生の頃につぶれてなくなっていましたが、

頻繁に大阪に映画を見に行っていました。



高校卒業後、上京。とりあえず新聞奨学生で新聞配達しながら学校に通ってました。

新聞配達して学校行って、夕刊配って映画観に行くという忙しいフリをした生活を送っていました。

この頃一番沢山映画をみていて年間200本ぐらいは劇場で見ていました。観る映画も自主制作の映画からジャンル問わずなんでも観ていました。

沢山映画を観ているとアメリカ映画は全て同じにみえて、だんだんとヨーロッパの映画やインディーズ中心に見るようになっていきました。


そういや在学中に東映撮影所に美術の手伝いに言ったのにいまだにその作品は見れていません。

クレジットで名前でてるはずなんですが・・・・。
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破壊されるビルのガラスを樹脂で作ってた。



卒業後、とりあえずテレビ局で大道具しておりました。
休みが隔週2日で残業が月50時間程度です。担当番組の翌日がたいてい休みになるのですが、休みの前日に長時間拘束されるので休みの日は寝て終わりということが多かったように思います。

バラエティ番組を主に担当していたのですが、たまにドラマの収録に立ち会ったりすると朝まで仕事で大変でした。

この頃8mmのカメラを買いました。8mmといってもビデオの8mmではなくフィルムの8mmです。この頃映画はフィルムでなくてはいけないという考えがあり、時代に逆行するかのように生きておりました。

この当時3分のフィルムで現像代あわせて3千円ぐらいかかったと思います。今はもっと高くなってるようです。



大道具の仕事をやめてから8mmカメラを片手に色々撮影していました。そんななか新宿の大道芸人たちを見るようになりました。

別に大道芸自体は他でも見たことはあったのですが、きっかけになったのはこの人。



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皆さんご存知であろう。始めてみたときはパントマイムの寸劇のようなことをやっていた。次に見たときは風船とディアボロだった。その後、シガーボックス、デビルスティックと芸が増えていった。それを見て、もしかしたら少し練習すれば出来るようになるのでは?と思うようになった。

そのまま東急ハンズに向かい風船を購入した。風船に特別興味があったわけではなく単に一番簡単に手にはいったからです。どちらかというと風船は一番興味がなかった芸で、街で見かけても最後まで観る事はなかった。

ポンプと風船と本のセットで本を見ながら練習しました。作ること自体特に難しいことはなく、唯一難しかったのが口で膨らますことでしょう。口で膨らませるようになるのに2週間ほどかかりました。

その次に購入したのがDPクループから発売されていたディアボロ。スイスのMr.BABACHEのMサイズでした。これにも解説書がついていて基本的なやり方はこの本と街で見かける芸人さんの見よう見まねで覚えました。

当時ナランハはまだオープンしておらず、ジャグリング道具は簡単に手に入るものではなかった。
 造型の仕事をしつつ、8mmで映像製作してジャグリングの練習をしていた。

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